刑事裁判においては、第一審の審理で直接主義、口頭主義が採用され、証人尋問や被告人質問等を直接行って心証を形成し、事実認定をすることとされ、控訴審は事後審として一審判決の認定に論理則、経験則違反がないかを審査することとされています。そして、最高裁判所は、原判決に憲法違反、判例違反等がないかを審査する法律審であることを原則としているので、控訴審の事実認定の当否に介入することには慎重でなければならないとされています。しかし、最高裁は、原判決に「重大な事実誤認があり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反する」ときには、原判決を破棄できることになっていて、最高裁も原判決の判断が論理則・経験則に照らし不合理といえるかどうかの観点から審査すべきであるとされています。裁判員裁判には一般市民も参加するわけですから、論理則・経験則というのも法律の専門家にだけ通用するようなものであってはならず、「一般常識」とか「一般的なものの見方」と言い換えられるべきものであると思います。論理則・経験則に違反するというのは、平たくいえば、「その判断は常識的に考えておかしいだろう」とか「その判断は誰が考えてもおかしいだろう」ということになろうかと思います。
しかし、原判決に論理則・経験則違反があるかどうかについての判断が最高裁の裁判官の間でも分かれることがしばしばあるのですからやっかいです。証拠の評価や事実認定というのはそれほど難しい問題だということです。
ここに投稿する事件としてはふさわしくないかもしれませんが、最近最高裁が逆転無罪を言い渡した2つの性犯罪事件を紹介します。
満員電車内の痴漢事件です。被告人は、朝の満員電車内で、17歳の女性の下着の中に左手を入れて陰部を触ったとして強制わいせつの罪で起訴され、一審、二審とも客観的証拠はなかった(被告人の手指に付着していた繊維の鑑定が行われましたが、女性の下着に由来するものか不明でした)ものの、女性の証言に信用性を認め、被告人に実刑判決を言い渡しました。 女性は、満員電車の中で被告人と向き合った状態で陰部を触られ、途中駅で他の乗客とともに一旦ホームに押し出され、再び他の乗客とともに電車内に押し入れられると、前と同じような状態で被告人と向き合うことになり、また陰部を触られたので下車駅に着く直前に被告人のネクタイをつかんで「電車降りましょう。痴漢したでしょう」といった、などと証言しました。最高裁は、被告人には前科前歴がなく、この種の犯行を行う性向をうかがわせる事情はないので、女性の供述の信用性判断は特に慎重に行う必要があるとした上、
などを勘案すると、途中駅までに女性が受けたという痴漢被害に関する供述の信用性には疑いをいれる余地があり、その後に受けたという痴漢被害に関する供述の信用性についても疑いをいれる余地があるので、被告人が犯行を行ったと断定するには、なお合理的な疑いが残るというべきであるとして、無罪を言い渡しました。
この裁判に関与した最高裁裁判官は5名で、うち2名の裁判官は、反対意見で、原判決が女性の供述の信用性を認めたことに論理則・経験則違反は認められないとしています。つまり、3対2で無罪となったわけです。
ある地方都市のビルの階段踊り場で起きた強姦事件です。被告人は、ある日の午後7時過ぎに駅前の路上で、18歳の女性に「ついてこないと殺すぞ」などといって脅迫し、同所近くのビルの階段踊り場まで連行し、女性を壁に押しつけ右足を持ち上げて無理矢理姦淫したとして強姦罪で起訴されました。被告人は、報酬の支払いを条件に女性の同意を得て、本件踊り場まで一緒に行き、手淫をしてもらって射精したものの、現金を渡さないで逃走したのは間違いないが、脅迫・暴行、姦淫はしていないとして事実を否認していました。一審、二審とも女性の証言は信用できるとして実刑判決を言い渡しました。最高裁は、暴行・脅迫、姦淫を基礎づける客観的証拠は存在しないので、女性の供述の信用性判断は特に慎重に行う必要があるとした上、
等の諸事情があるにもかかわらず、これらについて適切に考慮することなく、全面的に女性の供述を信用できるとした一審及び原判決の判断は、経験則に照らし不合理であり是認できず、被告人が本件犯行を行ったと断定するには合理的な疑いが残る、として無罪を言い渡しました。
この裁判に関与した最高裁裁判官は4名で、うち1名の裁判官は、反対意見で、一審、原審は多数意見が指摘するような問題を踏まえて2度にわたる女性の証人尋問や被告人質問を含む事実調べを行って慎重に判断したものであって、その判断内容も経験則に照らし不合理な点はないとしています。つまり、3対1で無罪となったわけです。
私は、上記2つの事件の記録を読んだわけではなく、被害者とされる女性の生の証言内容も分からないのですが、最高裁の判決文を読んだ限りでの感想をいえば、事件(1)については、「最高裁の少数意見がいうように女性の供述は特に不自然・不合理ではなく、原判決の判断に経験則違反はないのではないか」と思いましたし、事件(2)については、「一審、控訴審はこのような証拠でよく有罪にしたものだ。最高裁の多数意見がいうとおり原審の信用性判断には経験則違反があるといわざるを得ないだろう」と思いました。この投稿をお読みになった方はどう判断されたでしょうか。 なお、事件(1)の多数意見は、原判決に論理則・経験則に違反する点があると明確に指摘することなく、女性が受けたという痴漢被害に関する供述の信用性について疑いをいれる余地があるとしているにすぎないように見受けられ、最高裁の審査の在り方に照らして不十分な判決ではないかと思われます。 いずれにしても、両事件とも最高裁の裁判官の間でも有罪・無罪の判断が分かれた事件であったわけで、「疑わしきは被告人の利益に」という原則の根底に流れる考え方からすれば、無罪という結論は正当であると思います。 証拠の評価や事実認定は難しく、死刑か無罪かという究極の判断が要求される事件もあるわけですから、法曹三者とりわけ裁判官と検察官には高い事実認定能力を涵養してほしいと思います。
少し専門的になりますが、東京国税局が告発し、東京地検特捜部が起訴した脱税事件が全面無罪になるという珍しいことが起こりましたので、紹介し、検討してみたいと思います。
東京高等裁判所は、平成26年1月31日、ある男性の所得税法違反事件について、無罪を言い渡した一審判決を支持し、検察官の控訴を棄却する判決を言い渡しました。
検察官は、控訴審において、一審裁判所が、過少申告の認識がなかったとする被告人供述を排斥することはできず、全証拠を検討しても、被告人に所得税ほ脱の故意があったと認めるには合理的な疑いを容れる余地がある、と判断したのは、論理則・経験則に違背すると主張しましたが、控訴審裁判所は、「原判決の認定に論理則・経験則等に照らして不合理な点はなく、事実誤認があるとはいえない。」と判断したのでした。
本件は、極簡単にいうと、外資系証券会社に勤務していた被告人が、平成18年分で約5000万円、同19年分で約2億8000万円の株式報酬等を申告せず、所得税合計約1億3000万円を脱税した(虚偽過少申告ほ脱犯)として起訴された脱税事件です。
事実関係にはほとんど争いはなく、争点は、脱税の故意があったか否かであり、給与収入に関しては、(1)被告人に株式報酬が源泉徴収されていないことの認識があったか、(2)本件各申告時において、被告人が給与収入総額と申告額を具体的に認識していたか(差額の認識があったか)の2点でした。被告人は、捜査・公判を通じ、株式報酬は源泉徴収されているものと思っていたし、過少申告の認識はなかったとして脱税の故意を否定していました。
この事件の特色は、事実関係に争いがなく、脱税の故意の有無だけが問題になった点と、ほ脱税額が1億円を超える、いわゆる否認事件でありながら、被告人が逮捕・勾留されることなく、在宅事件として捜査・公判が行われた点、さらに被告人と同じように株式報酬の申告をしなかった社員が大勢いたのに被告人だけが告発・起訴された点だと思います。
大阪地検特捜部の証拠改ざん事件やその後の検証作業が行われていた時期と重なったとはいえ、国税局による告発から起訴までに2年を要しており、これも特異なことではないかと思う人がいるかもしれませんが、確かに最近では珍しいものの、私が現場にいたころには、在宅の脱税事件をたくさん引き継ぎ、時効直前の事件もあって、東京拘置所で身柄事件を担当しながら、暇をみて時効間近の否認の在宅事件の捜査もしていたという記憶があり、2年の経過は事情によってはそう特殊なことではないように思います。
私は本当のところを知っているわけではありませんが、本件捜査が在宅で行われた理由は、事件の構図そのものにあると思います。給与収入を申告せずに税金をごまかそうとしても、国税当局が、給与を支払う会社を調べれば被告人がいくらの株式報酬等を得たのか、たちどころに全てが分かってしまうのに、仮名の預金口座を利用する等の明確な所得秘匿工作も行わず、給与収入を除外する方法で脱税しようなどと考える人がいるだろうかという、事件の構図自体に内在する疑問があって、強制捜査に踏み切れなかったのではないかと思います。
また、被告人と同じように株式報酬を申告しなかった社員が100人くらいいたのに告発されたのは被告人1人であって、いくら否認しているとはいえ、強制捜査を行うのはあまりに不公平であり、酷であると考えたかもしれません。
そうはいっても、被告人に脱税の故意ありと認定する方向に働く多くの間接事実があって、その事実を経験則・論理則に従って正しく判断すれば、被告人に脱税の故意があったことは優に認められる、と検察官は考え、起訴したのだと思います。
検察官が、経験則・論理則によれば脱税の故意が認定できるとして挙げた間接事実をいくつか検討してみたいと思いますが、特筆すべきは、一審裁判所が、検察官の主張を排斥するに当たり、「被告人の供述」を理由として挙げていることです。被告人は、捜査・公判を通じて脱税の故意を否定していたことは先に述べましたが、被告人は、検察官による取調べにおいても、一つ一つの事実について明確に反論し、自己の認識・考えを供述して、供述調書に記載してもらったものと思われます。一見不自然そうに思われる供述であっても、それが真実を語るものであれば、それを裏付ける証拠も付いてきて、強力な説得力を持つことが分かります。
検察官が最も重点を置いたのは、被告人は平成18年分で約5000万円、同19年分で約2億8000万円の株式報酬を得ていたという厳然たる事実であり、これに数々の間接事実を併せ考慮すれば、確定申告に当たり、申告額と実際の収入金額との間に相当多額の差異があることを当然認識していたはずであるという点でした。
控訴審裁判所も「検察官が指摘する各事実は、申告額を上回る報酬受領の事実を認識していたことを相当程度推認させるものであることは確かである。とりわけ、総所得金額と申告額の差は、一般的には申告額を上回る報酬を受領していたことを認識していたものと推認されるのは間違いない。」と判示しています。
しかし、控訴審裁判所は、被告人が所得秘匿工作を全く行っておらず、税務当局が調査に入れば多額の脱税の事実が直ちに判明する状況にあったこと、被告人は税理士のミスで申告していなかった平成14年から同17年分の期限後申告を同19年2月に行っているが、同17年には初めて得た株式報酬約2400万円があったのにこの分は期限後申告でも申告漏れになっているところ、過年度申告を税理士に依頼しながら敢えて株式報酬部分だけを申告から除いて所得税のほ脱を意図していたとは考えにくいこと等のほ脱の故意を推認するに当たり消極方向に働く事情がある、としました。同17年分は、告発も起訴もされていません。
また、検察官は、会社に源泉徴収義務がないことを記した社内のメモランダム・メールの受領状況等によれば、被告人が株式報酬は源泉徴収されていないことを認識していたことが認定できると主張しましたが、控訴審裁判所は、株式報酬が源泉徴収の対象でないとの認識が一般化しているとはいえず、被告人がメール等の内容を明確に認識したかも明らかでない上、被告人を含め多人数の株式報酬の申告漏れを出した本件会社はその後源泉徴収を行うようになっていること、会社のコンプライアンス部長も株式報酬については源泉徴収されていると思い込んでおり、被告人を含む100人程度が不申告であったこと等の事実も認められ、検察官の主張は採用できない、としました。
そして、控訴審裁判所は、「原判決は、ほ脱の故意を認定すべき積極方向の事実が存するとしつつ、その推認力は高いものではないことを示す事情があるとし、また、ほ脱の故意を認定するには消極方向の事実も少なからずあって、検察官の指摘する各事実を総合しても、株式報酬も源泉徴収されていたと思い込んでいた旨の被告人の弁解を排斥することはできず、さらに申告時にその年に受領した給与収入額と自己の申告額との差額を具体的に認識していたとも断定できないとして、結局、被告人にはほ脱の故意があったと認めるには合理的な疑いが残るとしたが、原判決の認定に論理則、経験則等に照らして不合理な点はなく、事実誤認があるとはいえない。」として検察官の控訴を棄却し、同判決は確定しました。
被告人は、受け取った株式報酬を自ら売却したり、売却代金を被告人名義の海外の口座に入金したりしていましたから、それだけ多額の報酬を得ていて、確定申告時にそれを認識していないはずはないだろう、というのも確かに常識的な判断であるように思います。 他方、被告人は、仕事柄日常的に100億円を超える高額の取引に携わり、自らも高額の報酬を得ていて通常人とは異なる環境に置かれていた上、既に述べたとおり、国税当局が、給与を支払う会社を調査すれば被告人がいくらの株式報酬等を得たのか、たちどころに全てが分かってしまうのに、仮名の預金口座を利用する等の明確な所得秘匿工作も行わず、給与収入(株式報酬)を除外する方法で、故意に脱税しようなどと考える人がいるだろうか、というのも健全な常識的判断だろうと思います。
被告人が脱税の故意を持っていたかどうかを判断するに当たり、故意がなかったことを窺わせる事情が少なからずあったわけですから、一審、控訴審の判断は経験則・論理則に則った適切な判断であるといえると思います。